Date: Mon, 23 Mar 1998 11:09:48 +0000

From: Choseki Furusaka

教育・研究ー0ー1

 皆様お元気で、研究と教育に励んでいる事と推察申し上げます。
 所で、最近の国内国外の諸状勢をみると、多くの混乱が見られます。其の大本は経済活動に余にも重点が片寄りすぎていることにあるように思われます。人類の生存が危惧されるような地球全体の環境汚染は此れまでの工業生産の在り方に疑問を投げかけています。
此れからは人類が存続し続ける為にはどのような産業構造に替え、また、人々の生活様式も替えて行けばよいのか試行錯誤を繰り返す必要があるのではないでしょうか。
 教育・研究についても上記の事を踏まえて、此れまでの枠に捕われることなく、あるべき姿を模索することが要請される段階になっていると考えます。
その際最も基本的に重要と思われることは、人間一人一人の命と人間しての尊厳を大切にすることではないでしょうか。最近の日本の教育・研究改革路線を見る限り、この基本が全く忘れ去られて、企業の利便の為の方向を取って居るように見えます。此のように考える裏付は沢山ありますが、その2、3を上げますと1)子供の人権、2)小学校から大学に至るまで、先生方の主体的活動をどのようにして援助して行くかという姿勢と対策が殆どみられないこと。また、創造的研究者を育てる為と称して先端研究機関をつくるだけでそこで働く研究者がどのような教育課程で育ってくるのかの検討が全く行われていない事等を挙げることができます。創造的研究を行うのは、研究者自身であり、決して施設や装置ましてや行政関係者ではないことを忘れて居るように見えます。
 此のように考えますと、教育・研究者自身が、自分自身の活動や考えを見つめ直し、最も望ましい教育と研究の在り方を、模索し討論し合い、その像を明確に示す事が必要になってきて居るように考えます。今の忙しい最中に、このようなことを考える暇は全くない、そんなことをしていたら研究が遅れてしまう、とお考えの方も多いことでしょう。そのような方も、もっと伸び伸びと研究に専念出来る場を望んでおられるのではないでしょうか。そして、そのような場は何時の時代でも、自分自身で作り出す以外方法が無いことをご存じのはずです。また、自由な場を構築出来れば、後に続く人々に、大いに賞賛され、また感謝されることと思います。
 上記の様な考えの下に、E-mail を使ってお互いの考えていることを討議したいと考えています。多くの方々の御発言と討議を御期待申し上げます。
1998年3月18日     古坂澄石
追白 停年後15年も経った私が上記のような事を言うことには、私自身大変抵抗を感じています。それは現役の皆様の主体的領域を犯すものであり、私自身何の責任も取れない問題であるからです。出来るだけ早い機会に、何方か私を追い出して下さることを切望しております。

Date: 1998.3.26

From: Hiroyuki Yamamoto

古坂澄石先生の問題提起に対して;
我々に何が出来るのかを考えてみると、本を書く、講演会を開く、講義をするなどが浮かんできますが、このいずれも顕微鏡を抱えて現物を見せるという荒技には到底かなうものではありません。米国のさる高名な分子系統分類の研究者は学会で講演はしないが、サマースクールでは理論から実技までを懇切丁寧に教えるという話を聞いた。多分、すでに論文を読みこなす専門家よりも、次世代の学生や生徒(大学院生ではない)また異分野の人に自らの専門分野を理解してもらうことに重要性を認めているのでしょう。
さて、我々の世界では技術講習会が頻繁に開かれてます(医学系では多いです)。しかし、微生物の世界や生態を一般の人々をも対象にして理解してもらおうという試みはまだまだ少ないようにも思います。現状の教育制度に大学の教官が直接手を入れることはできませんから、微生物生態学を見せるサマースクールが必要なのでしょう。しかし、微生物生態学会の研究部会において川端さんが苦労されているように、大学院生を対象とした試み(微生物生態学会誌 M&E, vol. 12, No.4)さえも順調には進展しない状況です。米国では現実の教育が、日本ではまだ絵空事でしかないという現状をひっくり返すには、力技(予算、政治などという)が欠かせないのでしょうか?
微生物生態学会のホームページを開設したので、これを利用して情報や意見を掲載することも考えています。
以上、申し上げる次第です。

Date: Wed, 01 Apr 1998

From: Choseki Furusaka

山本啓之様
 御返事有難う存じます。仰せの通り此れ迄の教育の仕方、知識重点で、知恵を働かせる思考の訓練が疎かになった仕方そのものをどうしたら替えられるのかが第一の問題点だと思います。この点については個別的に論議を広げて行く予定にしています。例えば自然科学入門を小学生段階から中学生段階までどのように行うか。仙台郊外の松山町の酒屋で夏休みに子供達を集めて微生物の入門を教えています。
 日本の大学では明治以来講義によって知識を与えることだけが教育であり、教官の評価も研究業績に重点が置かれ、教育は業績の評価に組み込まれ無いというおかしな慣習が一般化しています。
ご指摘の点を改変するのに、力技を用いる前に、教官が実質的討議を踏まえて、実質的改変策を策定することが重要と考え今回の討議を呼びかけました。

From: zenichiro kawabata

Date: Thu, 2 Apr 1998 11:40:37 +0100

 古坂先生、山本さん、断片的なコメントですが、下記の”微生物生態学会の研究部会において川端さんが苦労されているように”ですが、私が愛媛大ではうまくいかなかった学長裁量経費を、高知大・水産学部の鈴木聡さんが、高知大学長裁量経費に申請したところ、実習経費が取れました。高知大・鈴木、高知大・深見、愛媛大・中野、愛媛大・川端、愛媛大・石井(D3)が、5月11日〜16日に高知大で、四国4大学院生(学部は問わない)を対象に集中実習を行います。現在、高知大の鈴木さんが中心に実習計画を立案中です。このことを知った愛媛大学農学部の事務サイドも感心を寄せています。波及効果を様々な面から期待したいと思います。出来ることからやる。そして、話を盛り上げる。そして社会的にも発言していく。こんなやり方で私たちは動き出しました。この活動報告は機会を見て、どこかでいたします。古坂さん、山本さんの問題提起もこのような行動を通して考え続けて行きたいと、今のところ考えています。古坂先生の問題提起に今は答えていませんが、少しずつといった所を報告しておきます。
愛媛大・農・生態系保全学研究室・川端善一郎。

Date: Tue, 07 Apr 1998 10:55:29 +0000

From: Choseki Furusaka

教育・研究ー0ー2
 大学院大学や先端技術大学院など次々に新設乃至大学改組による増設が見られるが、この事はどのような意味を持つのであろうか。
 日本政府は大学の研究に極めて僅かの研究費しか出さず、企業も自分で新しい技術を開発するより、他国(アメリカやヨーロッパ諸国が主)で開発され、成功することが明らかな技術を買いあさる傾向が顕著であった。其のことが諸国の批判をあびたことは記憶に明らかなことである。此の批判が契機になって、文部省は俄に国立大学に予算を振り撒く様になった。どのような基本方針であるかということは全く明らかにされていない。また、俄に創造性を重視すると言うことで、大学院や先端技術大学院を急造したが、今の教育制度と管理的教育実態からは創造性豊かな研究者が数多く育つとはとても思えない。研究・教育者の側も、余にも少なかった研究費が多少良くなることと、世界との競争に負けないための焦りから、基本的にどのような方針でどのような過程を踏まえて、制度的、内容的変革を行うかを十分検討すること無く、また、検討の仕方も現在の枠の中でだけで、その枠をはずして、検討が行われることは殆ど無かったように見られる。
 今一番大切な事は、先生方一人一人が自分自身を見つめ直し、各々の立場と役割を明確に意識して、自分の損得にこだわることを捨て、自信を持って改革の実を挙げることではないでしょうか。
教育と研究の国民に対する最終責任は教育・研究者が負っていると考えます。決して文部省でもなく、政府でも無いのではないでしょうか。上に述べた枠は、政府や文部省が作った枠では無いでしょうか。枠は其の時々の実態に合わせて替えるべきもではないでしょうか。
 今のように忙しくては、そのようなことをしている暇はない、と言う反論が出てくる事と思います。一人の人間が或る期間に為しうる仕事は限られています。各々の人は、数ある仕事のなかから、それなりの選択をしている訳です。従って選択の仕方を替えるだけと考えられ無いでしょうか。過労死に為らないためにも。

From: Kazuhiro Kogure

Date: Sat, 11 Apr 1998 17:14:46 +0900

ところで小さいことですが、最近感じていることを一点のみ。

最近イギリスのSociety for Applied MicrobiologyのNewletterを見ていてなるほど と思ったのですが、Newsletterの中にMISAC(Microbiology in Schools Advisory Committee)というのがあります。UKのあちこちの地域の微生物学者の名前が30-40人ほどならん でおり、この人たちは要請があれば地域の学校で微生物学を教えたり、技術的な手ほど きをしたりすることになっているそうです。

日本の高等学校の生物の教科書を開くと、原核生物についての記述はほとんどなきに等しい状態です。ところが核酸やタンパク合成のプロセスについてはかなり記述され、さらには大腸菌や枯草菌を使った遺伝子組換えなどの一節が出てくると、これは” 微生物学”を全く無視し、あくまで微生物をツールとしてしか捕らえていないことが明白です。 これでは大学での教育がよほどうまくないと、微生物自体に興味を持つ人は出てこないでしょう。

そこで、微生物生態学会員が地域や学校などで何かできることはないのか、それから 高校(多分中学、小学校も含め)の生物学の教科書はどうあるべきか、について少し考えてみるのはどうでしょうか。そうすれば、このHome Pageは学校の生物の先生などにも見 てもらえるかもしれないし、微生物学の広がりが多少なりとも期待できるような気がするのですが−。実際に関連する経験を持っている方に是非コメントなりを頂ければと思います。

木暮一啓

Date: Thu, 07 May 1998 11:12:51 +0000

From: Choseki Furusaka

教育・研究ー4(大学院)ー1

 1952年か51年の事であった。国は特別に経費を出すことは出来ないが、大学院を開設して欲しいとの要望が、かっての旧制大学各学部に出された。東北大学農学部も教授会で検討した。研究者の養成のためには、望ましい事は分かっていたが、学部教育の為の経費も十分でないときに、大学院教育を引き受けるべきかどうか、特別の講義や演習の仕事が増えるが、やれるのかといった点が論議された。国が貧乏なのだから、多少無理でもやって見ましょうとの結論に達し、53年から大学院が発足した。その後、数十年に亘って、通常の教育・研究に必要な経費が支給されることは無かった。今思うと、いかにも日本的な無し崩し的行政であった。学部側も、必要経費やサービス的教育・研究の加重に対する給与を要求すること無く、十分な改善要求をしてこなかったと考えられる。
 日本は契約社会を経験せずに近代化したことが其の一因を為しているのではなかろうか。社会が ”なし崩し”体制で動いているときに、実質に基いた主張をすることは、困難を伴う事と考えられるが、責任を持てる仕事をするためには、正当と考えられることは、堂々と請求し続けることは必要なことではなかろうか。

Date: Sun, 10 May 1998 11:16:36 +0000

From: Choseki Furusaka

教育・研究 4ー2

 小学校から大学院まで、山ほどある与えられた教科を覚え込む事に全精力を注ぎ込まなくては為らなかった学生諸君に創造的研究者になれとは、一体文部省はどのような思考の仕方をしているのであろうか。政治屋からお役人まで、完全に管理された此れまでの教育を受けて育った人々であることを考えれば当然の成り行きかもしれない。今、この過ちに気が着き、個個人の特性に配慮した多様な教育過程を、準備し始めているが,此れまでの国家管理的体質を変える努力をしない限り、本質的な改善には継がらないのではなかろうか。そのように考える最大の理由は、小学校の先生から大学院の教授まで、教育に直接与っている方々が、最大の自由を享受し、創意と工夫を十分発揮できるための諸条件を国がどのようにして整えるのかという論議が、新聞その他の報道のなかに、殆ど全く認め
られない事である。このことを抜きにして、どのように制度や教科を替えても実効が上がらないと考えるからである。
 最近、”今の学生は、言いつけたことは良くやるが、それ以上のことは殆どやらない”と言う話しを良く聞く。それは、此れまでの教育の在り方の当然の結果ではなかろうか。莫大な知識を詰め込まれ、知恵を働かせる訓練を余り受けてこなかったわけで、下手に知恵を働かせたら、試験に落ちるのが責の山であったであろう。大学や大学院の教育の最大の課題は、学生諸君に知恵の働かせ方の訓練を数多く課することではなかろうか。知識を再編成して、自分自身が知恵に基ずいて、自由に使いこなせるようになれば、新たな意欲を沸かすようになるのではなかろうか。先生方には辛いこととは思うけれども、研究成果を求める前に為すべきことのように思える。

Date: Mon, 18 May 1998 10:56:04 +0000

From: Choseki Furusaka

教育・研究 4ー3

 昔も昔、現役時代に数多くのドクター論文審査に参加した。一人40ー50分の内容説明の後に、審査員の先生方の質問が色々の角度から行われるのが通例であった。ある時期から、「なぜ、その課題に取り組んだか」を全員に問うことにした。大部分の院生諸君からは、先生から与えられた課題であるからという返事が返ってきた。そこで、「貴方と先生は全く同じ意見であるのか、研究の位置付けでも全く同じなのか」等の課題選定にさいして自分自身でどの程度検討したかを尋ねた。満足な返答が出来る院生は稀であった。それで、約10年間同じ質問を全員に繰り返した。
 研究の課題の選定は、最も難しい課題の一つで、此れが出来ることは、独立した研究者の重要な資質の一つであり、其のための訓練が余り行われていなかったことを知った。そこで、20枚程度の総説を自由に題目を選定し、書いて貰うことを教科に加えた。選定して貰った課題と内容の箇条書を提出して貰って、それについて討議した。なかには、莫大な記述を要する課題から、適当と思われるものまで様々であった。討議の結果を踏まえて総説を仕上げて貰った。其の添削は教師に取っては非常に重労働で、講義準備より多くの時間を要し、永続きしなかた。20人近い院生にこの課題を課する事はむりで、2ー3人なら可能である。 前期の質問を通してもう一つ感じたことは、討議の訓練が極めて不足していることであつた。
 ところで、博士の審査基準について考えて見よう。多くの大学では、世界中でだれも見い出さなかった事実や、法則あるいは、反応経路等等、に関連する新しい研究成果に重点を置き、最低1〜数報の学会誌への投稿を必要条件としている。他の能力、課題設定能力、文献を批判的に解読する能力、論議能力、等は発表の際の質問の中で僅かに試されるだけである。
 結果重視の判定をするか、能力重視の判定をするか、独立して研究できる研究者の保証となる博士の判定について、大学院の教課課程を含めて再検討する必要はないのであろうか。

From: Kazuhiro Kogure

Date: Fri, 22 May 1998 13:52:50 +0900

 最近高校の教科書を見る機会があり、その中の微生物に関する記述のあまりの少な さに愕然とさせられました。それでいて大腸菌が遺伝子組換えで使われるようなアン バランスな部分がある。また、進化のところでは今だに2界説と5界説が基本になっています。どうやら教科書編纂にタッチしてきた動物あるいは植物学の専門家はあまり細菌の重要性を指摘したくないのでは、などとすら感じてしまいます。あるいはどのように新しい系統進化の考えを盛り込んでいけばいいのかわからない、と見ることもできるでしょう。

 ともかく、これでは微生物、とりわけ細菌についてごくごく基本的な知識すら持つことなく大人になっていく人が大部分であることが納得されます。

つまり、高校の教科書の例を見るまでもなく、

微生物ほどどこにでもいる生物は他にはいないにもかかわらず、

微生物ほど多様な機能を持っている生物は他にもいないにもかかわらず、

微生物ほど進化で重要な役割を果たしてきた生物はいないにもかかわらず、

微生物ほど人間の生活に密接に関わる生物はいない(医学、食品分野など)にもかかわらず、

微生物ほど生態系の中で大きな役割を担っている生物は他にもいないにもかにもわらず、

微生物ほど無視され、

微生物ほど人々の間(生物学者をも含め)での一般的知識が欠如している生物は他にはない、

ということです。

こう書きながらもなんだか怒りがつのってきます。

 この状況を変えるのは大変ですが、とりあえず、高校の教科書をこう変えるべきだ、という具体的な提言をまとめ、学会として世に発表するのはどうでしょうか。基本ができたところで関係学会にも回す、さらに岩波の”科学”あたりにその骨格を示せれば、かなり社会的インパクトもあると思います。

 生活圏の微生物生態部会、微生物の系統進化部会、微生物教育研究部会が連絡しあい、秋の学会の時に集まりを持つのはどうですか。やってみるだけの価値と意義は重文あると思いますが−。

木暮一啓

Date: Fri, 22 May 1998 14:35:05 +0900 (JST)

From: Satoru Suzuki

高校の教科書では、生物IA(実業高校用)である程度微生物が扱われています。農業高校では「生活圏の微生物」や「生物工学」「カルス培養」などのバイオ授業・実験が行われています。しかし、こういう教育を受けているひとは研究者にならない。化学でも生物でも普通科の教科書(IB, II)はあいかわらず系統立っていない知識の詰め込み編集です。微生物はエキストラ程度に出る程度。徐々に微生物も認知されてゆくとは思いますが、上記木暮さんの提案のような積極策はいいことだと思います。

微生物教育研究部会では小学生、高校生、一般人に対しての啓蒙というテーマが提案されています。具体化にあたっては上記3部会が共同戦線をはるのは賛成です。社会的にニッチを得るには何でもいいからマスコミに「微生物」という文字を踊らせるのが効果的だと思います。

玄人からみると、なんでこんなことで新聞ネタになるの?と言われるようなことでも、一般人からすると、とんでもなくスゴイことだったりするのです。だれか、論文かくのをやめて「微生物小説」をバンバン書くのもいいかも知れません。これは笑いごとではなく。

Date: Sat, 23 May 1998 15:38:32 +0900 (JST)
From: Satoru Suzuki

 大学院がどうやってできたか、などということは考えたことがありませんでした。歴史の裏側の一部を知ることができました。そして、先日我々がやった「四国内大学微生物生態合同合宿実習」もまさに、なしくずし的に予算もなくスタートした新しい高等教育だと思いました。この実習についての詳細は川端さんが学会誌に報告する予定。

ただし、日本に大学院ができたいきさつと大きく違うのは、今回の実習は文部省の小役人からでも、世論からでもなく、現場を見ている教官が必要性を感じて熱意だけでスタートを切ったところでしょう。私は今回の実習は21世紀の実験系大学院の演習、実習の大改革のプロトタイプになるだろうと自信をもって言えます。

今、まさに小学校からの教育の歪みが大学院、学界、学問そのものにまでも影響を及ぼしていますが、古坂先生の文章を読んで、同感に思う部分がとても多かったです。自分自身の行っている大学院教育を省みて、院の教育とくにDr.の教育(入学を許可する時点の問題もふくめて)について考えさせられました。

教育関係にHPを使うのは名案です。他学会にもこういう教育(初等から高等まで)に関する部会などがあれば横の繋がりを強化するのもいいでしょう(他学会ではこういう部会やフォーラムはないかも….)。そういう繋がりのなかで、木暮さんもいっていたように教科書編集レベルからの変革ができるような気がします。

鈴木 聡

Date: Sun, 26 Jul 1998 16:35:16 +0000

From: Choseki Furusaka

研究・教育関係の皆様へ

突然胆石が暴れ出し、大地震なみの震えに見舞われ、その対策に、当分の間、時間と空間を取られることになってしまいました。頭の活動も著しく低下、申し訳ありませんが、当分の間 E-mail の送信停止させていただきます。目下の予測では、30ー40日。

皆様のご健康と良い休暇を!

教育・研究 4ー4

 もう少し勉強したいから、大学院に入りたいと言う言葉をよく聞く。また、先生方も修士課程を修了して、昔の大卒に相応する学力だとも言っておられる。20台から30台の間は創造的発想の最も盛んであり、体力も最も強い年代である。その時代を今の様な過させ方をして良いのであろうか。出来るだけ速く、少なくとも2〜3年早く博士課程を修了させ、独立した研究者として、自由にはばたかせることができないのであろうか。

 昔は、高等学校時代に、哲学、文学、芸術、社会、自然科学等々様々な分野の文化に触れ、また、自分自身の興味や考えを問い詰め、多いに迷い、悩んだものである。其れによって、一人の人間としての基礎が固められたように思える。今の高等学校時代は、受験勉強に明け暮れ、そのような、時間的ゆとりは全く無いように見受けられる。大学に入って小学校以来の受験からやっと解放されると同時に、疲れがどつとでて、何もしたく無くなるのではなかろうか。漸く気を取り戻して勉強し始め、勉強の面白さが分かり始めるときには、またまた、就職活動に追い廻されるのではなかろうか。これは、キリスト並みの受難像としか言いようが無いように思える。このような状態からどうしたら脱却出来るのか。社会の在りかたや考え方と複雑に絡んだ問題であり、簡単には替えることは出来ないであろう。親は子供に社会で少しでもよりよい安定した地位を得て貰いたいと望む。そのためには、良いと言われる大学の卒業証書が必要と考えているように見える。子供の知的水準が高まることは望ましいことではある。しかし、子供がその特性をのばし、一人の人間として自己の尊厳を獲得し*,、喜びを持って生きて行く道はもっと多様であるように考えられる。親と教育の役割は、子供自身が自分の特性を見い出し、それを磨き上げる事の、援助を行うことでは無かろうか。

 最初に述べた子供の受難は、余にも多い知識の詰め込みにあるように思える。自分が勉強したいことがある程度分かり、それをするだけの体力も備わった大学時代にぼうとせざるをえない状態に追い込む其れまでの知識の詰め込みは百害あって、一利の無い逆立ち教育である。    

 子供は幼いときは、遊びを通して創造力や想像力を養うだけでなく、運動能力や危険を避ける能力その他の多くの能力を体得する。小学校高学年以降徐徐に知識もふえ、それを使って物を考えることが出来るようになる。そのために必要な知識はそれほど多くないはずである。

 要するに、逆立ち教育をやめ、教科を大幅に削減し、子供達が自由に伸び伸びと遊べる段階から、次第に教科を増やし、其れも、教科を基本的なものに限定し、大学に入ってから多いに勉強して貰ったら良いのではなかろうか。

とんぺい講1

上記のことを纏めた後に、『21世紀の大学像』という大学審議会の中間報告が朝日:7−1に報じられたので追記する。

相変わらない、官僚管理型の発想である。どうして、当事者ー学生と教官ーの実体に立脚した検討が出来ないのであろうか。少なくとも、何トンにも及ぶ資料を文部省は持っているはずである。多すぎて、また、整理が出来ず(整理するためには、高い見識と専門的知識と能力を必要とする)、審議会に提出出来ないのであろうか。
それが出来ないとすれば、文部省は不要である。

「学部教育」でどの様な学生像、人間像を求めるのか、なにも記述がないのはどう言うことなのか。
単位数など、国がどうして決める必要があるのか、主体は学生であり、本気で勉強し、身に付いた物だけが役に立つ。試験に通つて、単位を貰っても、一夜付の物は何の役にも立たないことは、審議会の皆さんの良く知っていることではないでしょうか。

卒業の証書を出すためには、必要だとお考えかもしれません。証書があると、中身が無くても、社会がそれなりの待遇を与えるから、勉強したくない人々まで、大学を目指すのが現状ではないでしょうか。単位取得の認定書だけにして、卒業証書なしにすることも良いとは思いませんか。卒業は”なし”にしても良いし、大学独自に単位数を決めて、証書を出しても良い。

「大学院教育」
別に論じた。

「運営システム」
大学自身で決めればよいこと。国は大学運営に必要と認められる総額を出し、後は大学に任せたらよい。

「評価システム」
何を基準とするのか。非常に独創的で10−100年立たないとうけ入れられない成果をつぶすことになるが、この種の問題をどう考えるのか。
細かい事は色々あるけれども、最初の考えの立脚点が、問題であると考えます。
管理と競争は教育とは最も馴染まない考えではないでしょうか。管理された組織の中では創造性は阻害されます。競争は人間の本性の一部にあることは確かです。しかし、競争心に依存して、勉強や研究に励ませることは邪道です。

古坂 澄石

Date: Sun, 13 Sep 1998 11:19:43 +0000

Choseki Furusaka

二か月余の長い夏休み。病院生活も9月12日に漸く終了。日頃付き合いの無い、町の人々との接触。様々な人間模様。大いに勉強になりました。其れにしても、随分長いあいだ医者と無縁であったので、最近の麻酔術の発達、胃を始め、類似の内臓カメラとその付属器具の発達には大いに驚かされました。後2週間ほど休んだ後、討論の場に復帰したいと考えて居ります。

御心配お掛けしましたが一応元気になりましたので、御放念ください。

古坂 澄石